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間違いとどう向き合うか?

感心させられたことがありました。

昨日のソルフェージュのレッスンで、家で取り組んできたワークの答え合わせをしていた時に、間違った解答に赤の色鉛筆で✖️を書いた子がいたのです。

ついこの間小学生になったばかりの1年生の生徒さんです。

✖️を書いてから、間違えた解答の下に正しい答えを書き直していました。

とても驚きました。最近あまり見かけない光景だったからです。

私たちが子供の頃には当たり前だった光景ですが、いつの頃からか、子供たちは間違いに✖️をしなくなった、というより、✖️を嫌がるようになったように記憶しています。

間違えた答えを、‘間違えた’というだけで、‘何を’間違えたのかを確認する間もなく慌ててその痕跡を消し去るように消しゴムで消してしまい、そして正しい答えをあたかも最初からそう書いてあったかのように上書きして、そして青、またはひどい時には赤で○を書き、点数さえも100点と書かせてしまう教育…

もうずいぶん前のような気がするけれど、やはり何らかのドリル的な物に取り組んでいる時に、そんな光景に驚き、聞くと、学校でそう教わっているとその生徒さんが話してくれました。

私は、間違えた答えは消さないで残しておくように話します。自分がどういう時にどんな風に間違うのか、を示す貴重なデータだからです。

ちょうど観たテレビで、元東大クイズ王の伊沢さんが同じような事を話していました。復習こそが勉強であると。

そして、間違いは自分の弱点を示してくれているのだからとても貴重です、と。

だから、一度間違えた問題は二度と間違わないように復習することが大切です、と語っていました。

クイズで勝つためには、新しいことを覚えるのではなく、昔やったことをおさらいするのがメインだ、とのことでした。

この事はほぼ全てのことに当てはまると思います。

昔受けたあるセミナーで教わったのですが、成績の良い人とそうでない人の違いについてのお話がとても興味深いものでした。

人は何かを習得する時に、

①全く知らない状態

②聞いたことがある、かすかに知っている

③少し考えたら分かる

④見た瞬間に考えなくても分かる

という段階を踏むのだけれど、意外なことに、成績の良いトップクラスの人ほど、③のものを④になるように徹底的にトレーニングするものだ、という話だったのです。

そしてさらには、成績がさほど振るわない人ほど知らないことを新たに入れようとするそうです。つまり①→②に時間を割くということですね。

以前にも書いた気がするけれど、人にとって使える知識とは④の状態のものがほとんどなのだと思います。つまりこれが『身についている』状態。『血となり肉となる』ということですね。

YouTubeで、あるピアニストさんが、今人気沸騰中の「鬼滅の刃」の中に出てきた名言がピアノの上達と共通です、と紹介してくださっていました。それは、

お前はなにも身につけていない。
何も自分の物にしていない。
知識としてそれを覚えただけだ。
お前の身体は何も分かっていない。
1年半もの間何をやっていた?
お前の血肉に叩き込め。
骨の髄まで叩き込め

というものでした。
正に‼︎

知識として知っていることを「出来た」と勘違いしてしまうこと、で悲劇は生まれます。

身につくまで繰り返し復習することで、ジワジワと自分が「出来る」感じがどういうものかが分かってくると、誰に言われなくとも「出来る」まで何度でも取り組もうとします。

これは一度何かで体感出来ると他の事にも全て活きてきます。これは何も勉強的なものである必要は無く、遊びの中で学ぶことが多いですね。

だから遊びは大切なのです。林修先生も、その著書の中ではっきりと言っておられました。「集中力は遊びの中でしか(!)育たない。」と。

幼児や小児から遊びを取り上げて幼児教育に走るのは愚の骨頂と言わざるを得ません。

人生、何からでも学べるのです。夢中になって遊べる何かがあれば大丈夫。ただし、とことんそれに向き合わせてあげることが大事です。時間で切り上げさせてしまったり、片付けさせたりするのはご法度です。

以前、東大に合格した親御さんたちに、子育てで心がけた事をインタビューしていたテレビ番組を観たことがありましたが、「やはり!」ということばかりでした。その中でも一番印象に残ったのは、多くの親御さんが、

「いたずらをやめさせなかった」
「興味を持ったことは気の済むまでやらせた」

と話していたことです。
人が力強く歩んでいくのに必要な事を良く分かっているからこそ、の姿勢だと感心させられました。

優秀なお子さんの親御さんたちほど、勉強だけを価値あるものとして扱っていません。生きていく中で出会う全てが学びのチャンスであることを知っているし、そうやって学んでいく事の喜びも知っているからだと思います。

親御さん自身が常に何かを学び続けている姿勢を見せていること、が成績上位者の家庭に共通して見られる現象だった、という調査結果も記憶にあります。確かアメリカのどこかの大学での調査だったと思います。

親御さんたちは、我が子の成績を上げたくて必死になりがちです。そこにこだわる方たちほど、真の学びの場であるはずの‘遊び’を制限してしまいます。そして勉強を強要しがちです。その結果は…。

一方、親御さん自身が人生の面白さがどこにあるのか分かっていて、それが遊びの中で育つことも分かっている場合は、結果的に成績も良くなる、ということになりますね。

だいぶ話が広がってしまいました。

最初の話に戻ります。自分の間違いに‘悲しくならずに’向き合えることはとてもとても大切なことだと思うのです。

間違いは、その部分の知識ややり方が違う、ということであって、何も人格否定されているわけではありませんね?だから不機嫌になる必要など全く無いのです。むしろ、これで一つ’分かった’のですから、‘よし!’と前向きな気持ちにすらなります。
この辺りがごっちゃごっちゃになる方は大人になってもたくさん見かけます。

人は間違うものだし、うっかりもします。なかなか定着もしません。ピアノを弾いていると日々痛感します…。

弾けるようになったはずの曲でも思うように全てがパーフェクトに出来たことなんてただの一度もありません。

だから続けるのだと思います。
レッスンや練習って何のためにあるのだろう?

やっていく中でほめられることはあるだろうけれど、それを求めてしまっては何だか違うのではないでしょうか?

向き合う相手は常に自分。
昨日の自分より今日の自分。さっきの自分より今の自分が、わずかにでも何かの達成に近づいているかどうか。

自分のご機嫌は自分でとりたいものです。

小学1年生ながら、自分の間違いに顔色一つ変えずに✖️をしたYちゃんのおかげで、また一つ、大切なことに気付かされました。