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数学と算数に思うこと

昔から不思議に感じていることがあります。

勉強とは自分のためにするものだと思うのですが、どうも学校で子供たちが求められていることはそうではなさそうだということです。

私は秋田県出身ですが、小学生の頃から高校生までいつでも〈予習〉が大切と教わってきました。

大学から仙台におりますが、家庭教師をしていた頃から今まで、いつ、どの学校に通っているお子さんに聞いても、どちらかというと予習することが好ましくないように言われているように感じております。(さすがに高校は違いますが)

びっくりして理由をたずねると、「先生の話を聞かなくなるから」と言われているようです。

確かに教科によっては予習してあれば、必要な所(分からなかった所や不確かな所)以外、熱心に授業を聞く必要はなくなります。特に数学はそうだと思います。

なので、私は中学時代いつも、数学の時間は数学の予習を授業中に進めていました。遊んでいるわけでもサボっているわけでもないので、自ら先を学ぶことをとがめる先生は基本いませんでしたが、ただ一人だけ”気に入らない”と感じていそうな先生は中学3年の時にいらっしゃいました。

でも、私と同じように授業中に予習を進めている人は他にもいて、その人と私はたまたま一番前の席で隣同士でした。彼と私は小学1年の頃からいつも算数、数学では競争していました。(彼は本当に数学ができる人で、今はその力を活かしたお仕事についているように記憶しております。)

その中学3年の時の数学の先生は、初めのうちこそ授業を聞いていないと思われる私たちに当ててきたので、すでに書き終わったノートを出して答えたりしていました。毎回100点を取る私たちには諦めてそのうち当てなくなりましたが、数学の時間に先の数学を学ぶことを咎められる理由は無い、という思いは全くブレませんでした。

別に先生に反抗しようと思っていたわけでも馬鹿にしていたわけでもありませんから。

そんな風に勉強しているので、家での数学の勉強時間はほぼゼロでした。

国語(特に古文、漢文)や英語は授業中の予習はちょっと無理がありましたので、どうしても家での時間が必要になります。なので、数学に時間を割かなくてよいのは本当にメリットでした。

予習するメリットとしては、もっと大切なことがあります。

ひとりで教科書を読んで理解していく作業では、語句の意味するところをきちんと把握出来ないと何を言っているのかよく分からなくなります。(ここで求められるのは国語力です)

私も時々、ある文章から次の文章への流れが意味することが良く分からなくて苦しむことがありました。でも、この苦しみがあるおかげで、分かった時にはしっかりと刻まれていくのです。

テレビのクイズなどで、「あれ〜なんだっけ?」と思い出せなくても、答えを聞くと「あ、そうそう。」とすんなり納得することが多いと思いますが、これがくせもの!

つまり、予習という苦しみを通過せずに聞かされた(説明された)知識は、実にすんなり入ってきます。でも刻まれにくいのではないでしょうか?

その時は分かった気になるのです。分かった気になるのと、分かるのは違います。

一度自分の頭でしっかり一から十まで考えた道筋ならば、その後(例えばテスト)で問われてもきちんと答えられます。だからこそ、理解したものはあらためて勉強する必要はなくなります。(さらにそれを基にした応用問題などの勉強はもちろん必要ですが)

ですから私は勉強のカギは予習にあると考えております。

けれど、仙台市では予習していくと先生の話を聞かなくなるからダメ、と言われるという…。

真の力をつけさせたいとは思わないのでしょうか???内申点を下げられるからと親も子もビクビクしているようです。本末転倒もいいところです。

変な話つながりでもう一つ。

小学生の子たちが、分数の線やイコールの線を定規を使って書いているのを見て、「何で定規使うの?」と聞くと「使わないと先生に怒られる」のだそう…。あきれてしまいました。

算数ってリズムだと思うのです。それをいちいち定規を使わせることで削いでしまうということに指導する側は気付かないのでしょうか?

という話を姪っ子(東京在住)にしたところ、塾に行き始めた子たちから使わなくなっていたとの証言が。塾の先生たちは分かっていらっしゃるようで良かった!

物事の本質は何なのか?今、つけようとしている力は何なのか?

本質を見抜けず、本質を見据えられない人たちにくだらないことで縛り付けられることほどつまらないことはありませんね。

人の顔色を伺うことが優先される学校って変ではないでしょうか?

そして、力のある子もちゃんと伸びていい、ってとても大切なことのように思います。

4スタンス理論を学び始めてから、みんな同じを目指す教育のおかしさ、弊害を嫌というほど感じています。

さらに問題なのは、目的を果たすための手順まで縛りがあること。

教える側は、良かれと思って手順を示しているのですが、人それぞれやり方や身体の使い方が違う以上、その一言一言の助言のせいで出来ることも出来なくなってしまう恐れがあります。

40歳や50歳を過ぎた、自称〈運動音痴〉な方たちが、今の自分の身体が人生の中で一番自由に動くようになったことに感激して、異口同音に「もう一度体育で出来なかったことにチャレンジしてみたい」とおっしゃいます。

つまり、「出来ない」のではなく、「出来ないようにミスリード(先導)されていた」だけなのです!

頭と心を柔軟に、当たり前と思っていることを疑ってみることで、もっともっとご自身の能力を楽に活かせるようになるかもしれません。

そのお手伝いが出来たらいいな、と思っております。

以上ずっと書きたかったことをようやく書きました。